サブカルworkshop

『僕たちの嘘と真実』から見た欅坂46の正体

 映画を観てからブログに感想も書かずに2ヶ月以上経ってしまった。自分のだらしなさが嫌になる。一応頭の中では欅坂46で何なんだろうとか、なぜ改名せざるを得なかったのだろうとか考えてはいた。とはいえ、言葉にしなければ誰にも伝わらないし、何の意味もないと思い、今回ブログを書くことにした。
 ちなみに観賞直後の感想がこちら。

 Twitterではグループの動かし方のバランスについて言及した。私自身『サイレントマジョリティー』をきっかけにグループを好きになり、ライブを直接観ることはできなかったものの、常に動向に注目していた。しかし、ある時期から私と他のファンとの間で、グループの捉え方に違いがあるように感じられた。今回は、映画の感想というより、なぜ欅坂46はこのような終わりを迎えたのかについて自分なりの考え方を書いていきたいと思う。

そもそも欅坂46の魅力って何?

 欅坂46は2016年4月、『サイレントマジョリティー』で華々しいデビューを飾った。

  

 楽曲のみならず、MVでの彼女たちのパフォーマンスやいわゆる「笑わないアイドル」像も含めて大きな話題となった。私は「メチャカリ」のCMでこの曲を耳にし、MVを目にし、欅坂46を追いかけるようになった。
 そして、同年8月に『世界には愛しかない』、11月に『二人セゾン』をリリースし、楽曲の完成度、これまでのアイドルにないパフォーマンスで徐々に人気を確立していった。

  

  

 これら3曲の個々の完成度もそうだが、これらのリリースの流れも素晴らしいと思う。強いメッセージ性を持つこれまでにないアイドル像を打ち立てた『サイレントマジョリティー』、強いメッセージ性を持ちながらも、「青春」をテーマに等身大の言葉が綴られる『世界には愛しかない』、「青春」というテーマは同じに「出会いと別れ」のストーリーを描く『二人セゾン』。この流れによって、欅坂46は様々なアプローチで欅坂像を提示してきた。(とはいえ、メディア、特にテレビは「笑わないアイドル」ばかりアピールしていた気がするが)
 しかし、個人的には、翌年4月にリリースした『不協和音』辺りから違和感を覚えだした。この時期から周囲が欅坂に求めているのは、世の中の理不尽や不条理に立ち向かう姿を表現することのように感じた。

  

 さらに、同年7月にリリースしたアルバム『真っ白なものは汚したくなる』の収録曲『月曜日の朝、スカートを切られた』でも、理不尽と戦う姿を表現している。

  

 こういった表現を行うことを否定しているわけではない。ただ、この方向性を推し進めては、世間に消費されてしまうのではないか、せっかく『世界には愛しかない』や『二人セゾン』が生み出したものがなかったことになるのではないかという危惧があった。
 その後、『風に吹かれても』、『アンビバレント』と異なるタイプの楽曲をリリースしたものの、やはり世間が求めているのは『サイレントマジョリティー』と『不協和音』になっていった。もちろんこの2つの楽曲がグループを唯一無二の存在にしたことは事実であるが、世間のグループや楽曲の受け止め方が自分とは明らかに違うものであることも事実であった。
 その違いとは、歌詞をセリフとみるか、歌う人自身の言葉とみるかである。私は前者であるが、それは欅坂に限った話ではなく、すべてのアーティストに当てはまる話である。欅坂に関しては、歌詞をすべて秋元康が手掛けている(ゴーストライター説はここでは無視)のだから「歌詞はセリフ」という考え方は当たり前かもしれないが、意外と世間は歌詞を本人の言葉のように捉えているのような気がしてならない。だからこそ、「欅坂の歌詞に助けられた」という言葉が出てくる。
 私は、メッセージ性のある歌詞でも、それが聴き手である自分に向けて歌ってるようには聴こえない。歌詞の内容を自分と重ね合わせようと思わず、どんな歌を聴いても他人事という感じだ。どちらかと言えば、私は歌詞の「内容」よりも「表現」すなわち言葉の選び方を重視する傾向にあるように思う。それ以上に音と言葉の親和性を気にしているような気もする。

欅坂46は背負い人

 ここで、映画の話になるが、欅坂のすべての表題曲の振り付けを手掛けたTAKAHIRO氏は「欅坂46は背負い人」と言った。人々の苦悩を彼女たちが背負い、それを原動力にしてパフォーマンスするのだと。おそらく多くのファンはこの言葉に納得するのだろう。しかし、私は「何を言ってるんだ」と思った。歌詞は彼女たちの言葉ではない。セリフなのだ。彼女たちのパフォーマンスはお芝居なんだ。そんなものにマジになってどうするんだ。そういった思いが頭を駆け巡った。このとき、私と世間のグループの受け止め方の違いをはっきりと認識した気がした。
 結局、TAKAHIRO氏のような考え方でグループが動いてしまったため、世間はパフォーマンスするグループと自分を重ね合わせ、グループは背負い込む必要のないものまで背負わなければならなくなり、結果グループは疲弊してしまったように感じられる。別にTAKAHIRO氏を批判する気はない。そこでグループのバランスを取るのは運営の仕事だからだ。
 そして、そのような考え方をファンを持ったがために、本来9枚目のシングルの表題曲の予定であった『10月のプールに飛び込んだ』を「欅坂らしくない」という声が多かったのだと思う。その「らしさ」って一体何なのだろうか。前述のようにデビュー初期は様々なアプローチを試みたのに、結局ファンの思いは『サイレントマジョリティー』、『不協和音』、『黒い羊』に収束してしまった。自分たちの苦しみを彼女たちに背負わせて救われたいのだ。

  

櫻坂46、始動

 今年10月、欅坂46は「櫻坂46」へと改名した。12月には、櫻坂としてのデビューシングル『Nobody's fault』がリリースされる。最初タイトル見たときは、何か言い訳してるのかと思ったけど。あと、カップリングの『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』が素晴らしい。

  

  

 欅坂から変化をそれなりに感じられるし、これからどんなものを見せてもらえるのか楽しみだ。たまにはTAKAHIRO氏以外が振り付けした表題曲も見てみたいと思ってる。とにかくメンバーが必要以上に苦しまないことを願う。

終わりに

 なんか「私はお前らオタクとは違う」みたいな文章になってしまったが、炎上するほど大した火種ではないから大丈夫だろう。
 映画の感想としては、シンガーソングライターのぱくゆう氏の動画や、

  

   

ライターの香月孝史氏のnoteをぜひ見てほしい。

 また、映画の感想ではないが、香月氏の著書『乃木坂46ドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』もぜひ読んでほしい。本書のテーマは乃木坂46の「演じる」ことについての考察であるが、欅坂46についても少々言及されており、『サイレントマジョリティー』について非常に興味深い考察がされている。乃木坂46に限らず、アイドルに興味がある人ならば一読の価値がある本だと思う。